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カテゴリー「文楽」の記事

2008年4月29日 (火)

あっぱれ弁慶。

長丁場の後の二幕目は、『勧進帳』である。

歌舞伎と能からの移入物というだけあり、

舞台装置も音楽も義太夫さんの語りも

歌舞伎や能っぽい。

「いよぉ~、ポン」ってな感じである。

                                                              いずれにせよ、とにかく本幕の主役は、弁慶だ。

弁慶の見せ場は大きく三つあった。

                                                              一つ目は、その場を取り繕って、

東大寺大仏殿再建のための勧進帳を、

本当はないのにも拘わらず、

あたかもあるかのように即興で語った上で、

仏教の教えについて、

安宅の関守である富樫之介正弘からの

厳しい質問に、機転を利かせて

刀でばさばさ切って棄てるかの如く

答えていくところ。

痛快なり。

                                                              二つ目は、富樫に怪しいと呼び止められた

義経を救うため、

主人である義経に「このノロマが」という感じで

棒でぼこぼこに打ち据えるところ。

                                                                三つ目は、富樫から勧められた酒に酔い、

というか酔ったふりをして、

豪快な男舞を披露するところである。

                                                               リーダーである鶴澤清治氏の力強く切れのある

三味線に率いられた三味線隊の合奏と、

弁慶を遣う、桐竹勘十郎氏の大きな大きな遣いが、

弁慶をもっともっと大きく魅せてくれた。

                                                             同じく重要無形文化財保持者である鶴沢寛治氏

の乾いているけど切れのある「ベンッ」とは違う、

力強さのある清冶氏の「ベンッ」もいいなぁ。

                                                           会うたびに豪快さと安定感を増している勘十郎氏の

遣いもいいなぁ(なんて偉そうでごめんなさい)。

                                                              先の長丁場の疲れをすっきりと取ってくれた、

あっぱれ弁慶の勧進帳であった。

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あっという間の長丁場

国立文楽劇場も4回目となる。

今回の席は一回目と同様に、一列目の義太夫さん

寄りを選んだ。

目の前には人形と人形遣いさんがいるので、

人形遣いさんの一挙手一投足をじっくりと堪能

できると同時に、

絶対に、うとうとできない席でもある。

一つめは、

『競伊勢物語(はでくらべいせものがたり)』。

玉水渕の段がさらりと終わり、小休止の後、

本日のメインイベント、春日村の段へ突入した。

                                                             娘、信夫(しのぶ)の帰りが遅いことを、

決して浮気をしているのではないと、

娘婿、豆四郎に平謝りをする母、小よし。

母は、帰ってきた信夫と豆四郎の夫婦喧嘩を

やさしく仲裁する。

夫のためにと、三種の神器の一つである

やたの鏡を盗んできた信夫を、

役人に渡してしまうよりもまだよいと、

17、8年ぶりに訪れてきた、実の父で現在は相当

なる官位の職にある紀有常(きのありつね)に

引き渡す決断をする育ての母、小よし。

                                                            とことん、無私に徹し、すべてに娘のことを第一に

考える母が痛々しく切ない。

すでにその愛情は、実の母以上のものとなっていた。

                                                            引き渡された信夫は、内裏向きに衣装替えをする。

しかし、小よしは庶民であり、内裏の人となった信夫

に近寄ることはできない。

せめて最後の別れにと、信夫の琴を、

ついたてを隔てて聴く母。

                                                                  その琴の音が終わると同時に、

実の父である有常は、刀を抜き、信夫と豆四郎の

首を打った。

小よしの家に匿われていた、在原業平と井筒姫を

救うためには、我が娘とその婿を身代わりとして

差し出す以外に選択肢はなかったのである。

辛いのは、育ての母だけではなかった。

                                                           「母は涙に夜の鶴、

 父が涙の袖二つ

 昔忍ぶの摺衣、

 信夫の里を春日野や、

 その豆男筒井筒

 伊勢物語の因縁を

 ここに残して出て行く」

重要無形文化財保持者、竹本住太夫氏の声が

切なく会場に響き渡って幕切れとなった。

                                                              この一段だけで、2時間経過。

最初は、もつかどうか不安だったが、

あっという間の2時間であった。

これも、義太夫さん、三味線弾き、人形遣いの

皆さんの真摯なお仕事の賜物である。

                                                             住太夫氏は、公式パンフレットのインタビュー、

「技芸員にきく」で確かに、こう仰っていた。

                                                            「浄瑠璃は一段が長ごうおますけど、

それを長く感じさせたらあきまへん。

(中略)文章と文章の間字のない所を語らんと

あきまへん。

それができなければ間が「抜ける」のです。

間が抜けると浄瑠璃に変化がのうなって、

長ごう感じるのです。

初めからできるわけやおまへんけど、

それは稽古して覚えていかんとあきまへんなあ」

2008年1月12日 (土)

花を毛色の白鼠

初春文楽公演の2本目は、

『祇園祭礼信仰記』の4段目。

小田信長と天下を争う松永大膳は、

雪舟の孫娘である雪姫を捕らえ、

天上に雲竜の絵を描くか、さもなくば

自分のものになるかと

二者択一を迫る。

                                                             雪姫にしてみれは、

秘伝となる雲竜図は、

手本が何者かの手により祖父から奪われていた

ため伝授されておらず描くことはできない。

また夫婦の契りを交わした狩野之介直信に

不義はできず、大膳のものになることもまた

できない。

大膳は、手本ならここにあると剣を取り出し、

滝に映すと、滝に龍の形が浮び上がる。

                                                           雪姫は、これこそ、わが祖父の名剣であり、

龍の手本であると悟り、

祖父を殺したのは目の前の松永大膳なり

とその剣を奪って、大膳に斬りかかるが、

女の力空しく、押さえつけられ、

縄で縛られ、桜の木に結び付けられる。

                                                             ここからが本作の見所だ。

手も縛られているので、人形遣いの3人の内、

左遣い(左手を担当)ははずれ、

主遣い(顔と右手を担当)と足遣いのみとなる。

特に主遣いは右手も遣えないので、

左手で遣う人形の首と胴の動きだけで、

上記のような悲しくてくやしい心持を表現

しなければならなくなる。

                                                         主遣いは、昨年の『加賀見山旧錦絵』の

女ヒーローお初を遣われた時から気になる

存在であった吉田和生師匠。

雪姫の主遣いは今回が初めてだそうだ。

                                                              「行くも行かれず伸上がり見やれば誘ふ風に

つれ、野寺の鐘のかうかうと響きに、

散るや桜花、梢もしほれ身もしほれ、

しほれぬものは涙なる、

やや泣き入りし目を閉じき」

                                                           その時、雪姫は背中を見せた。

和生師匠は左手を高く掲げ、

雪姫の背中だけで感情を表現されている

全身全霊で遣われていると思うのだが、

師匠の顔にそういう素振りは見られない。

平気の平左衛門といった風情である。

素晴らしい。

                                                            もう一つの見所は、三層の金閣寺の

セリ上げセリ下げの妙である。

小田の家臣、真柴久吉は、金閣寺の

最上階「究竟頂」に幽閉されている

将軍足利義輝の母慶寿院を救うため、

1階から2階へ、そして最上階へと駆け上がる。

その時、金閣寺のセットがセリ下がる。

周囲の桜の木も高いところから見下ろす

ような感じに変わる。

                                                             セットを動かすだけで、観客自らも最上階へ

駆け上がる雰囲気を味わえる。

心なしか、高いところから周囲の景色を

見下ろしているような爽快感を覚える。

                                                              この仕掛け、初演の1700年代からのもの

だと言うから驚きだ。

その当時のビッグサンダーマウンテンは

文楽であったのだ。

                                                             話は戻るが、捕われた雪姫は、

お寺の柱に縛られた時、自分の涙で床に

描いた鼠が動き出し、縛られた縄を噛み切って

くれたという、祖父雪舟の逸話を思い出し、

地面に落ちた桜の花びらを集めて、

一心に爪先で鼠を描いた。

そうすると、たちまち鼠は動き出し、

雪姫の縄を噛み切ってくれたのだ。

今年の干支もワンポイントとなっている本作を

初春公演に選らばれたセンスも憎いなあ。

                                                              さて、私自身を縛っている縄は何なのだろうか。

その縄を鼠に噛み切ってもらい、

新たな一歩を踏み出せるような年にしたいと

思った。

まずは、自分で鼠を描くことから始めるとしよう。

自分で動かなければ何も始まらない。

081

めでたい。めでたい。

「四方の春風豊かにて、

明けて目出たき初日影、

青海原にさし出でて、

千里の外も見え渡り、

雲居の空に舞鶴の蓬が島を目の当り、

筆に書くとも及ぶまじ。」

                                                    幕が開くと、目の前には、

豪華な宝船に乗った七福神が登場する。

もうこれだけで幸せ気分一杯。

その後は、船上での酒盛りが始まり、

神さま達は持ち前のかくし芸をそれぞれ

披露して大いに盛り上がる。

                                                            布袋様は、大きな腹鼓で笑わせる。

頭の長い福録寿は、角兵衛獅子を上に乗せた

頭を伸び縮みさせて盛り上がる。

恵比寿さんは、釣竿を垂れる。

釣れるまでは、なんと恵比寿ビールをジョッキ

でぐびぐび!

これには一本とられたなあ。

文楽にビアジョッキが出てくるとは・・・

                                                           初春文楽公演ならではのご祝儀物、

『七福神宝の入船』はこんな感じで大いに

盛り上がった。

                                                              めでたい。めでたい。

下の写真は、大阪の初春文楽公演にはこれまた

欠かせない「にらみ鯛」である。

085

黒門市場からというだけあって、でかい!

いやはや、めでたい。

2007年8月 5日 (日)

竹本住大夫シャワー

第二部は、「伊勢音頭恋寝刀」。

題目だけで凄そうだが、歌舞伎からの逆輸入品

だそうだ。

第一部の総勢12名の義太夫さんと三味線遣いさん

とは異なり、それぞれ1名ずつ。

そして、私の真ん前にご登場されたのが、

日本義太夫界の最高峰、7代目竹本住大夫氏。

                                                   鶴澤寛治シャワーに引き続き、竹本住大夫シャワー

を浴びるとは・・・

ご本人の語りを見ているだけで面白い義太夫さんが

いらっしゃるが、その典型だと強く確信した。

微妙な心理状態を丁寧に語り分けるだけでなく、その

表情でもその気持ちを表現されているかのよう。

こちらは三味線よりも、氏の呼吸が直接降りかかって

くる。

「万野」というやり手の仲居が、大事なお客である

「徳島岩次」に接する時の声音と、彼女がよく思って

いない「福岡貢」に接する声音の微妙な変化、特に

後者の憎たらしい感じが絶妙なのだ。

その憎たらしさは、吉良上野介の執拗な内匠頭いじめ

を彷彿とさせる。

                                                背景となる遊郭「油屋」の夏支度された室内も、この

季節、涼しげでよかった。

しかし、終わりの方の氏は汗でびしょびしょの大熱演。

「万野」が「貢」を追いかけて見つからずに戻ってくる

シーンでの「あーしんど」なんてアドリブも最高。

熱くて本当にしんどかったのだろう(笑)。

                                                                                                       前段が終わり、住大夫氏が退かれる。

本当はスタンディングで拍手したかった。

                                                後段は、いよいよクライマックスである

「奥庭十人斬りの段」の始まり。

一人目を斬った後は、「貢」も完全に別人の殺人鬼

なったかのよう。

躊躇なく、二人目を斬る。

続いて、腕が飛ぶ。

さらに、首が飛ぶ。

後ろからも斬りつける。

寝ぼけ眼で出てきた幼女にも、容赦なく刃が向かう。

その幼女の片足が飛ぶ。

斬りつけた人の数が増えるとともに、「貢」の浴びた

返り血の量も増えてくる。

そして最後、宿敵「岩次」のとどめを刺し、念願の

刀の鑑定書を手に入れた「貢」であった。

                                                 しかし、ちょっと、待って。

こんな終わり方でええんかいな。

主君のためとはいえ、人を何人も殺しておいて、何の

罰も受けずにハッピーエンド。

これは一体どうしたものか。

                                                恐らく意味を深く考えても答えは出ないのであろう。

ただ、十人斬りの場面では、ぞっとする程の寒さを

確かに感じた。

文楽は庶民が楽しんできたものである。

殺人事件を素材にするというのも、今の時代感覚から

すると、極めて不謹慎なことではあるが、楽しみの

少ない時期、クーラーもなかった時期の庶民の密かな

楽しみとして、文楽でも歌舞伎でも演じられてきたのが

この「伊勢音頭恋寝刀」だったのだろう。

                                                 国立文楽会館を後にし、歩いてすぐの法善寺横丁

付近にあるなじみのおすし屋さん、丸十さんで一杯

やりながら余韻に浸っていた。

                                                大将自ら干したあじの一夜干しがなんとも美味だった。

2007年8月 4日 (土)

蝶の道行(みちゆき)

いかん。いかん。

一つ目の「契情倭荘子」について書くはずが、鶴澤

寛治氏の三味線に感動しそれだけ一話完結と相成

りました。

                                                 さて、この題目。

話は極めて単純だ。

存命中思いを遂げられなかった男と女が死出の

旅路で一対の蝶と化し、お花畑で舞う。

                                                            「その嬉しさと恥かしさ 袖を片敷く新枕」

                                                 なんて、なまめかしいシーンもありつつ。

                                                   ところが、状況が一変。

華麗なる2匹の蝶は、衣装も骸骨をイメージさせる

白い衣装に衣替え。

地獄に到着したのだ。

2匹の白い蝶が舞う。

苦しむように、しかし、美しく、はかなげに舞う。

それは、あたかも、寿命を全うする直前に、羽根を

痛めながら地面をのた打ち回るモンシロ蝶のようで

ある。

しかし、それは美しい。

言葉では表現できない、死の美しさ。

これは、さすがにオペラでは表現できぬ美しさである。

日本の人形だからこそ表現できる美しさではないか。

                                                       「狂ひ乱るる地獄の責め、夢に夢見る草の露、面影

ばかりや」

                                                                    どちらが夢で、どちらが現(うつつ)か。

観ている我々自身も不思議な感覚の中、幕が閉じた。

ひらり、ひらり、と。

鶴澤寛治シャワー

私の頭の中では、未だに「魔笛」が鳴り響いているの

だが、一旦それは棚上げにして、やってまいりました、

大阪日本橋の国立文楽劇場へ。

楽しみにしていた、サマ-レイトショーである。

題目は2つ。

「契情倭荘子(けいせいやまとぞうし)」と

「伊勢音頭恋寝刀(いせおんどこいのねがたな)」

いずれも、男女の情愛がモチーフとなっている演目だ。

                                                前回は一列目ど真ん中で、一人の人形遣いの方と

どうしても目が合ってしようがなかったし、人形中心に

観てしまったので、今回は義太夫さんと三味線遣いの

方をじっくり見ようと、右前方(5列目右から3番目)を

予約しておいたのだ。

これがドンピシャの大当たり。

一つ目では、ほんの目の前に三味線の重要無形

文化財保持者である、鶴澤寛治氏がご鎮座。

たっぷりと氏の三味パワーを浴びることができた。

いやぁ~、この三味の音がすごい。

決して力強くはないし、音も大きくはない。

しかし、心に染み入る。

一撥、一撥がやさしく語りかけてくるかのよう。。。

それが真夏の夜にとても心地よく・・・

いやはや、ほんとうに日本の文化財である。

                                                当日の解説本を読んでいたら、鶴澤寛治さんの

インタビューが出ていた。

                                                 「同じ「テン」と弾くのでも、怒っている時と悲しんで

いる時は違う。全ての音に意味があるんです。」

                                                  完全納得。

しかし、これほど言うは易く、行うは難いことはない

のだろう。

                                                 氏はこうも言う。

師の師匠から言われたことは、「口を開けろ」という

こと。

若き氏は、歯をかみしめていたため、体じゅうに

よけいな力が入っていて、口を開けたら自然とおなか

に力が入り、他の部分は抜ける、と。

                                                 これは、坐禅でもよく言われること。

坐禅の基本は座ることではなく、息を吐くことと吸う

こと。

そうすることで、臍下丹田に力がこもる。

意識して気合を入れずとも、不動明王のような力が

自ずと宿るのだ。

                                                そしてまた、拙者、鋭意修行中のゴルフも同様である。

スイングは呼吸をしながら行うことで、全身の力が

抜ける。

その代わり、インパクトの瞬間に体のパワーがボール

に伝えられ、ナイスショーット!

となるのである。

                                                      そして今日も私は練習場へと向かうのだ。

2007年5月 7日 (月)

二本の白い足

ようやく、念願の文楽を大阪の国立文楽劇場で観る

機会に恵まれた。

前回観たのは、高3の時の熊本県立劇場の二階席

であったが、今回は、なんと一番前のど真ん中が

空いておりますと来たので、即確保しておいた。

いやはや、人形遣いの方の息遣いまで手に取るほど

よくわかるが、どうにも目が合ってしまうのが情けない。

本来観るべきものは人形の所作なのだが・・・       

                                                一つ目は、「粂仙人吉野花王(くめのせんにんよしの

ざくら)」。

聖徳太子の兄である粂仙人は、吉野の深山に住む、

秘術を使う悪者仙人で三種の神器までも我が物

としている。そこに単身訪ねてきた麗しき女性の花ます。

登場するや否やの色仕掛け。

ルパンの不~二子ちゃんもまいっちんぐマチコ先生

(古い?)も真っ青な程のねっとりとした色気で仙人

に迫る。

前夫との出会いを思い出す花ます。桂川を渡るところを

回想し、仙人の前で再現する。

「サァたとへ水に溺るともこの川を渡って逢わんと」

深紅の着物の裾を大きくまくる。

その刹那、真っ白な二本の足が・・・ 

それを後ろで見ていた仙人は卒倒する。

最後は仙人に酒をしこたま飲ませ、べろべろにさせた上で、

神器を奪うと、岩山を力強くぐいぐいと登っていく。

「ファイトォいっぱあーつ!」以上の大迫力。

太夫の声も三味の音も最高潮を迎える。   

そしてついに、仙人により滝に閉じ込められていた

竜神竜女を開放してやると、怒涛の雷鳴とともに恵みの

大雨が降り出した。

その時の、花ますの顔に目は釘付けに。

達成感120%の喜びと自信に満ちたとても良い顔を

しているのだ。

花ますは、旱魃に苦しめられている住民を救うため

だけににここまでやったのではないのだ。

亡き夫の汚名を晴らすためにあそこまでの色仕掛けを

使ったのである。

そういう意味では不~二子ちゃんとはわけが違う。

そういう背景があるだけに、「よくやった花ます~」

と労いの言葉をかけずにはおれぬほど、

「人形が人形以上に凄くなる」瞬間を迎えたのである。

本当に、本来無表情な人形の顔がとても誇らしげに

見えるのである。               

                                                二つ目は、「加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうの

にしきえ)」。 

ストーリーは、いわゆる忠臣蔵を下敷きにした、大奥

版忠臣蔵という風情で、上司(尾上)の仇討ちを果た

した部下の女中(お初)がむしろ上の人に取り立て

られるというサクセスストーリー。

本物の忠臣蔵では切腹を命じられた四十七士に感情

移入し、綱吉の処置に疑問を感じていた庶民が溜飲を

下げる内容とも言える。

この物語で面白いと思ったのは、お局の岩藤にいじめ

倒されるもののそのことを自分の胸の内にだけしまって

おく尾上と、そのいじめの件を噂話で間接的に聞いた

上で、尾上一味の悪巧みのやりとりを覗き見して

しまったお初のそれぞれが、相手の気持ちを慮る

がゆえに、自分の胸の内を相手に伝えないで物語が

進行していくところ。

特に、屋敷の中の段では、それぞれが仕切られた部屋

の中で、今後どう行動すべきかを思案するシーンがある

のだが、当然観客からは両方のシーンが同時に

目に入る。

しかし、観客は、尾上の立場にも、お初の立場にも立って

感情移入し、物語に参加していくことが求められる。

今日思ったことは、文楽を味わうためには、自分が

人形と一つにならなければならないということ。

もっと言えば、義太夫とも三味線とも人形遣いとも

含めて

一つにならなければならないということ。                          

これが最初は難しいのだが、慣れてくるといつの

まにか、人形と一体化している自分がいる。

そういうものであるだけに、このような設定は観て

いる方としてもより真剣にならざるを得ないの

である(*1)。

そしてついに、尾上は自害。

それを発見したお初は大号泣、と同時に仇討ちを

決意する。不覚にもこのシーンでは、はらはらと

涙を流してしまった。

人形遣いと目が合うことを恥ずかしいと心配していた

自分が、今は完全に人形と同化しきっている。

文楽恐るべし、である。                           

さらに物語は佳境へ。

それまでは、上司に尽くすかわいくて賢い女中風情の

お初の顔つきも態度も一変。

燃えたぎる気持ちをもちつつも、自分の仕事を冷静に

認識して「仕事」に望まんとする必殺仕事人の趣きだ。

最後の闘いが始まる。

岩藤とお初の真剣勝負。

さすがは武家出身のお初、岩藤を討ち果たす。

そしてこのシーンでも、着物のすそがまくれ上がる。

しかしそこに、粂仙人の花ますが見せた「女」は全く

感じない。

力強く大地に立つ二本の白い足があるのだ。

実は、文楽の女形(おやま)の人形には通常足はない。

足がある物語はとても限られているとのこと。

今日はそういう珍しい二本の物語と出会うことができた

わけである。

もっと書きたいことは山ほどあるが、

とりあえずこのくらいにしておこう。

早くも、次回公演が大きな楽しみとなってしまった。                   

                                                     (*1)したがって、「心の理論」が発達していない段階の子供

には到底理解不能なものだろう。そもそも、義太夫が何を

言っているかわからないだろうから、ある程度の年齢に

ならなければ楽しむことは無理なのだろうけど・・・