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カテゴリー「books」の記事

2009年2月15日 (日)

学生さんへのエール

仕事柄、たくさんの学生さんと会ってきた。

彼ら彼女らがが最終的に決断する場面にも

数多く立ち会ってきた。

そのため、色々な人から、

「どういうところを見ているのか」

と聞かれることが多い。

                                                 しかし、こちらは、ここを見てやろうと、

鬼のように意を決して

学生さんと面と向かっているわけではない。

あくまでも自然体である。

ただ、それでは答えになっていないのだろう。

                                                 もう少し言えば、毎年思うのは、

他人の心持ちや置かれた状況を踏まえて、

自分の行動が取れるような人がいいな、ということ。

                                                人との関係性を持たずに済むような仕事はない

と思う。

ましてや、会社という組織で働く場合はなおさらである。

                                                そう思っていた矢先、

樋口弘和氏による、

『新入社員はなぜ「期待はずれ」なのか』

(光文社新書385)

という本を手に取った。

氏は、若者たちに必要なものは、

「自己認識力」と「他人の気持ちを察する能力」

だという。

経験的にも、まさにその通りだと思う。

一方で、氏は基礎的資質としては、

「素直さ」と「向上心」だというが、

これもまた経験的にその通りだと思っていた。

                                                 しかし、上記の2つの能力と、これら2つの資質とは

一体どういう関係にあるのだろうか。

また、2つの能力のうち、前者と後者はどういう関係に

あるのだろうか。

                                                 これが今春の私の大きな問いなのだ。

一つめの問いには、ある仮説がある。

その一つのキーワードは、家族の愛情である。

(氏は、「親のしつけ」と表現している)

二つめの問いに答えるには、ニューロンの段階にまで

立ち戻って科学的知見の積み重ね状況を確認する

必要がある。

                                                今年は本業に苦戦しそうなので、どこまで多くの学生

さんとお会いできるのかわからないが、

私としては、

これまで同様自然体での出会いを重ねる中で、

2つの問いの答えに近づくことができたら、

と思っている。

                                                    とはいえ、就活中の学生さんが、

今から、意気込んで「自己認識力」と

「他人の気持ちを察する能力」を伸ばそうとする必要は

ないと思う。

今、まさに真っ只中にいる就活にどっぷりと浸かって

いれば、

結果としてそれらの能力は向上するものなのだから。

ただし、だいぶしんどい。

しんどいけど、やなねばならぬ。

登らねばならぬ。

                                                私から、皆さんへのエールである。

2008年9月21日 (日)

「超克」か。

ちょうど昨年の今頃読んだ、

波頭亮さん茂木健一郎さんの対談

『日本人の精神と資本主義の倫理』(幻冬舎新書58)

を読み返してみた。

                                                 まえがきの1ページ目から、茂木先生の

格好良い言葉が目に飛び込んできた。

                                                     「怒りはそのままでは建設に通じず、

愛に変容してこそ社会のためになる」

                                                そして、その

「怒りとは、差異に対する感覚の表出である。

・・・現実と理想の間の距離が埋めがたい

ものに思える時、怒りが生じる。」と。

                                                     ここで「理想」と聞いて、

漱石が講演『文芸の哲学的基礎』の中で、

                                                「理想とは何でもない。

いかにして生存するがもっともよきかの問題

に対して与えたる答案に過ぎん」

                                                 「文芸は感覚的なある物を通じて、

ある理想をあらわすもの」

                                                 「この理想を実現するのを、人生に触れると

申します」

と言っていたことを思い出した。

[→2008.9.7記事参照]

                                                一方、波頭先生は同書の中で、

「プロフェッショナル」について、

カネを稼ぐかどうかという点がその本質的要件

ではなく、

それ以上に、「公益性」、「使命感の有無」という

方にこそ本質があると言う。

言い換えれば、「ノーブレス・オブリージュ」である。

                                                 こうなると、さらに思い出すのが、先般読んだ

チクセントミハイ教授の

『フロー体験とグッドビジネス』(世界思想社、2008.8)

である[→2008.9.15記事参照]。

                                                そこで先生は、

ビジネス組織の中で従業員にフローが生じるための

重要な要素として、リーダーのビジョンに、

「可能なかぎり最高の仕事をすること」

「人類と環境を救うこと」

「宇宙の意志に従うこと」

の一つが必要であること。

                                                そして、

「組織は組織そのものを超えた意志をもっており、

他のシステムを救うため・・・に手を差し伸べる。」

というが、

これこそまさに、公益性と使命感の有無である。

                                                以上を総合すれば、

文芸を含む芸術だけではなく、

ビジネスにおいても、

常に、目先の利益のみに囚われることなく、

全体感の中での理想を持って、

その上で現状に対する怒りを持って、

それを愛情に変えて、

仕事に没頭することが世の中のためにも、

会社のためにも、

自分の成長のためにもなるのだ

という結論が出る。

                                                     と、格好つけて書いちゃうことは簡単なんだが・・・

                                                 きっと、同書の中で茂木先生が引用していた

小林秀雄の言う「超克」ということは

そういうことなのかもしれない。

あきらめずに、くじけずに、

実践あるのみということか。

2008年9月20日 (土)

憐れな土左衛門

「レアティーズ: 溺れて? 一体、どこで?

王妃: 柳の木が一本、小川の上に差しかかって、

 白い葉裏を流れの鏡に映しているところ。

 あの娘は柳の葉を使って、きんぽうげ、いらくさ、

  ひなぎく、

 それに口さがない羊飼いたちが淫らな名で呼び、

 純潔な乙女たちは死人の指と呼んでいる紫蘭をそえて、

 きれいな花環を上手につくり、

 その花の冠を枝垂れた枝に掛けようと、

 よじ登った途端、枝は情(つれ)なく折れて、

 形見の花環もろとも、

 哀れにむせぶ小川に落ちました。

 裳裾はひろがり、しばらくは人魚のように川面を

  ただよいながら、

 古い賛美歌を口ずさんでいたといいます。

 身に迫る危険も知らぬげに、

 水に生れ水に馴れ親しんだ生物のように。

 でも、それも束の間、裳裾はたっぷりと水を吸い、

 あのかわいそうな娘を美しい歌声から引き離して、

 川底の泥のなかに引きずりこんでしまったのです。」

                                                                 ジョン・エヴァレット・ミレイ(John Everett MILLAIS)

は、父を恋人に殺され、その恋人から「尼寺へ行け」

とののしられ、

「狂乱の体(てい)」となって非業の最期を遂げた彼女

を描きこんだ。

                                                 まずは、背景となる自然の描きこみ方が

半端ではない。

近づいて見れば見るほど、

集中すればするほど、

様々な色の花や緑が、丁寧に、あたかも目の前で

生きているかのごとくに描き込まれている。

そして、流れる川の清らか水も、そう。

そういう場所では、彼女は流され、

川の深みへと徐々に沈んでいく。

決して、慌てふためくという風ではなく、

自らの運命を受け入れるかのように。

                                                    一方、那古井の温泉で青年画家は考えた。

                                                         「成程この調子で考えると、

 土左衛門は風流である。

 スウィンバーンの何とか云う詩に、

 女が水の底で往生して嬉しがっている感じを書いて

 あったと思う。

 余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリアも、

 こう観察すると大分美しくなる。

 何であんな不愉快な所を択んだものかと今まで

 不審に思っていたが、あれは矢張り画になるのだ。

 水に浮んだまま、或は水に沈んだまま、

 或は沈んだり浮んだりしたまま、

 只そのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に

 相違ない。

 ・・・痙攣的な苦悶は固より、全幅の精神をうち壊すが、

 全然色気のない平気な顔では人情が写らない。

 どんな顔をかいたら成功するだろう。

 ミレーのオフェリアは成功かも知れないが、

 彼の精神は余と同じ所に存するか疑わしい。

 ミレーはミレー、余は余であるから、

 余は余の興味を以て、一つ風流な土左衛門をかいて

 見たい。」

                                                   しかし、この気持ちは、

作者である漱石の気持ちであろうと思う。

漱石はこの『草枕』の中でそういうことを

書きたかったと思うのだ。

ただ風流なだけではない、

ただ自然を模したのではない、

人間の生々しく激しい心の動き、情念のようなもの

を書き込みたかったと思うのだ。

                                                私は、金曜夜の渋谷の静かな会場で、

漱石がロンドンで見たオフィーリアと対面しながら、

とても死と格闘しているとは思われない、

その彼女の姿が、

ロシアの戦場に向かう髭だらけの野武士のような

男、いや最愛の元夫と、別れた瞬間に、

ただただ呆然と汽車を見送るしかなかった

「那美さん」の「憐れ」な姿と重なってしまった。

                                                     よく考えれば、オフィーリアも那美さんも

周囲からは気がふれていると思われていた。

しかし、人間の心とはそんな単純なものではない。

「普通」の人も、周囲からそう思われているという人

紙一重のようなところもあるし、

明確に線が引けるようなものではない。

                                                       会場に話を戻すと、

ミレイの本作の秀作が横に展示してあった。

こちらのオフィーリアの表情は、

あたかも川に落ちて狼狽する感じそのもの。

                                                本作のオフィーリアの表情は、

秀作とは明らかに異なる。

それは、

私のような凡才がここで書けるようなものではない。

それが書けるのは、漱石のような本物の文学者

だけなのだ。

                                                次回熊本に帰省した時には、再び漱石も浸かった

那古井のぬるめのお湯に浸かって、

オフィーリアのことをゆっくりと考えてみることにしよう。

                                                 引用文献)

『ハムレット』シェイクスピア、野島秀勝訳、岩波文庫

『草枕』夏目漱石、新潮文庫

 

2008年9月15日 (月)

フロー体験しているか?

ミハイ・チクセントミハイ(Mihaly Csikszentmihalyi)

先生の『フロー体験とグッドビジネス』

(Good Business、世界思想社、2008.8)を読んだ。

先生の著書は、『楽しみの社会学、改題新装版』

(新思索社、2000.12)に続き2冊目である。

                                                    前回読んだ書は、「フロー(flow)」、

すなわち「全人的に行為に没入している時に人が

感ずる包括的感覚」についての概論という感じ

であったが、

今回はビジネス上のフローに焦点を絞ってある、

「うん。まさにこういうのが読みたかった」

という私のつぼにピタリとはまる書であった。

293ページの比較的分厚めの本であったが、

読み始めると、どんどん進む。

まさにフロー体験しながら、

すぐに読み終わってしまった。

                                                  先生は、有名になったソニーの「設立趣意書」、

                                                「・・・コレハ技術者達ニ技術スル事ニ深イ喜ビヲ

感ジ、

ソノ社会的使命ヲ自覚シテ思イキリ働ケル安定

シタ職場ヲコシラエタルノガ第一ノ目的デアッタ。

・・・」

                                                 を引用し、

「社会必要性に応えながら、喜びをもって思いきり

働くということ」が、

フローが職場で機能方法を完璧に表現している」

という。

                                                           そして、そこで働く者がフローを感じるためには、

その仕事の難易度、すなわちチャレンジと、

その人の能力、すなわちスキルとがバランスする

必要がある。

                                                 しかし、時間の経過とともにスキルが上がると

そのバランスが崩れ、フローは退屈へと変化する。

そこで大切なのが、

上司たるマネジャーがそのチャレンジを増大させる

マネジメントである。

「簡単につかむことができるものを越えたものに

手を伸ばすべき」だと言うのである。

                                                 これは、前回記事で引用した茂木先生の

『ひらめきの導火線』(PHP新書、2008.9)で、

触れられている、

「改善したところをまた改善して、さらに改善する」

という、トヨタ自動車のモットーと重なる。

                                                  この「オープンエンド」の思想こそが、

従業員をよりチャレンジングな仕事に向かわせ、

常に従業員にフロー体験を味わわせる原動力

となっているのではないだろうか。

                                                 茂木先生が言うように、

「どこまで行っても、「もういっちょう」「まだまだ」

と挑戦し続ける」凄みのようなものがそこにあり、

そういう場所にこそ、

フローの神さまが降りてくるのである。

                                                         一方、チクセントミハイ先生は、

「人生と呼んでいるものは、

長年にわたり注意力のフィルターにかけてきた

すべての体験の総量である。

この観点から、

何に注意を払うか、またどのように注意を

払うかが、人生の中身と質を決定するという

ことを容易に理解できるだろう。」

とさらりと言ってのけている。

                                                 このさらり、は胸が痛い。

ただ待っていてもフローは訪れないのだ。

日々フロー体験をするために、

自分は何をどうすればよいのかを日々真剣に

考え続けているのか?

そう自問自答すると、確かに答えに窮する。

                                                 日々こなさねばならぬ雑事があるとともに、

長い目で見て、今対応しておかねばならぬことも

ごまんとあり、

そのバランスに悩みながら、なんとか仕事を

こなしているのが現状である。

                                                           まあ、悩んでばかりいても始まらぬ。

改めて、「フロー」という観点から日々の仕事を

見つめ直してみることから始めてみよう。

2008年9月13日 (土)

「ほら、これ」なお酒

いよいよ、ひやおろしの季節を迎えた。

                                                今年の一本目は、三重は伊賀のお酒にした。

若戎酒造さんの、

「純米吟醸 真秀(まほ) ひやおろし」。

                                                 甘い。

しかし、全然しつこくない。

何杯でも行ける、とても自然な甘みである。

この甘み。

ありそうでない、なかなかのものなり。

しかも、ひやおろし独特の熟成感はたっぷりとある。

さらに通奏低音となる水がやさしい。

嫌味が全くない性格のよいお水である。

                                                 茂木健一郎先生が最新刊の『ひらめきの導火線』

(PHP新書544、2008.9)で繰り返し言っていたのは、

西洋文化をメルクマールとする必要はない。

むしろ、われわれ日本の「文化の中には、

世界に「ほら、これ」と差し出すべき、

宝物が埋まっている」ということである。

                                                              その例として、

20年に一度、社を移動させる伊勢神宮。

『源氏物語』の「もののあはれ」。

「秘仏」。

を挙げている。

                                                             もちろん。それらは、「ほら、これ」である。

秘仏でなくても、私なら、

滋賀高月、渡岸寺の十一面観音さまは

「ほら、これ」と、

声高らかに、世界に差し出したい。

                                                          それと、忘れてはならないものがある。

今まさに私が飲んでいる、日本のお酒だ。

「ほれ、見てみぃ!」

「ほれ、飲んでみぃ!」

と自信を持って差し出したい。

                                                 しかも、東京発信ばかりではない。

伊賀のお酒も、

長野の小布施のお酒も、

伏見のお酒も、

高槻のお酒も、

秋田、桧内川のお酒も、

高知のお酒も、

佐賀のお酒も、

それぞれに、それぞれに美味い。

                                                     この伊賀の若戎も、

蔵に住みついた自然の乳酸菌のおかげで、

独特の、ヨーグルトを思わせるような甘みを

感じさせてくれる。

                                                   伊賀では、新年になると、若者が戎の面を

かぶって酒盛りをやるそうだ。

                                                「年はみなひとにとらせていつも若戎」

                                                         という、伊賀出身である芭蕉の字余りの歌もある。

                                                飲めば、本当に若返ったような気にさせてくれる

「若戎」であった。

                                                         しかも、BGMはマーラーの3番。

インバルとフランクフルト放送響。

伊賀のお酒と、まったく違和感がない。

                                                     この一杯こそ、まさに世界に差し出して、

「ほら、これ」と叫びたい。

2008年9月 7日 (日)

有言実行の極み

東京での生活を再開して2カ月が経とうとしている。

通勤時、電車に乗っている時間が長いので、

読む本の量も増える。

このブログは読書日記の代わりにも活用している

ので、当然記事も増える。

                                                      今回は、漱石の『文芸の哲学的基礎』

(講談社学術文庫 1978)。

1907年(明治40年)4月の東京美術学校での講演

である。

明治40年4月といえば、

思い切って大学教師の職を辞し、

春寒の京都への旅から帰ってきたころか。

作品で言えば、『二百十日』、『野分』の後、

『虞美人草』前夜である。

                                                漱石は、芸術家の卵たちを前に、熱く語る。

文芸家(これは芸術家と読み替えてもよかろうが・・・)

は、「理想」をその作品に表すべきだと言う。

                                                             ここで言う「理想」とは、「真の一字にあるに相違ない」。

言い方を変えれば、

「いかにして生存するのがもっともよきかの問題に

対して与えたる答案」

である。

                                                 さらに言い方を変えれば、

「人生に触れる」ことである。

                                                  そして、文芸家の「理想」が完全なる技巧をもって

その作品に表現され、

それに接する者、すなわち鑑賞者の方でも

それを受け入れることができる程成熟している時に

鑑賞者は「還元的感化」を受ける。

                                                換言すれば、

文芸家と鑑賞者の「一致した意識の連続が我々の

心のうちに浸み込んで、作物を離れたる後までも

痕跡を残す」のである。

                                                そうなれば、

「文芸家の精神気魄は無形の伝染により、

社会の大意識に影響するがゆえに、

永久の生命を人類内面の歴史中に得て、

ここに自己の使命を完(まっと)うしたるもの」

となるのである。

                                                    この講演後、

『虞美人草』、『三四郎』、『それから』、『門』

といった作品が次から次へと、

精力的に産み出されていく。

                                                有言実行の極みである。

2008年9月 6日 (土)

細胞の意思

久しぶりに、細胞のお話。

団まりな先生の

『細胞の意思 <自発性の源>を見つめる』

(NHKブックス 1116 2008年7月)を読んだ。

極めて刺激的な本であった。

                                                   先生の主張は極めて明確である。

「細胞を、分子ではとらえきれないもの、

一般的には描写しきれないものと認めて、

人間や人間社会のドキュメンタリーのように、

細胞を個別に描写することを試み」た書である。

いや、先生は、より端的に、

細胞が意思をもつ。と言い切る。

                                                細胞の活動が、分子的、組織的な外力に規定される

ものだという考え方を「科学的考え方」とすれば、

先生は「擬人的考え方」の主張者である。

                                                  だからと言って、科学的厳密性に欠けるわけでは

ない。むしろその逆である。

                                                 この書を読んですぐに思い出したのは、

発生生物学の権威、岡田節人先生の

『細胞の社会』(講談社ブルーバックスB201 1972)

である〔⇒2007.6.19記事参照〕。

岡田先生の同書での表現こそ、擬人的である。

各章の題名からして、

「細胞同士のおつきあい」

「寂しがり屋の細胞」

「仲間がなければ生きられない」

「細胞は話し合う」

「細胞に永遠の青春を」

「細胞は手をつないでいる」

極め付きは、

「細胞は似たもの同士がお好き」

と来る。

                                                 さておき。

団先生は、細胞たちの「日常的な気分」に触れる。

                                                「細胞というものは、

生きていることを喜ぶ一方で、

ほとんどつねに”あくせく”していると考えています。

その理由は、細胞が死と隣りあわせの存在だから

です。」

                                                 「生きようとする細胞の”意思”、

周囲の状況をいち早く把握しようとする細胞の

”監視行為”、

死に抵抗する細胞の”創意”」

このような能力を細胞に認めるべきだと言う。

                                                 ここで、「細胞」を「動物」に読み替えれば、

シートンが『動物記』で詳細に記述した

自然の動物たちの姿にピタリと重なる。

                                                 さらに、「日本」と読み替えれば、

世界の中で「名誉ある地位」を占めんと願う

我々日本人が直面する課題となる。

                                                    このように、細胞を擬人的にとらえるからこそ、

見えてくるものがある。

そうすればこそ、細胞生物学の知見が、

その所定領域を超えて他の分野に貢献し、

さらにその地平を広げることにつながって

いくのではなかろうかと思うのある。

                                                そういう意味において、団先生の御指摘は、

刺激的であるし、頗る挑戦的でもあるのだ。

                                                    <補記、2008-9-23>

湯川秀樹先生は、

「生物の研究に対する物理化学的方法の

重要性を減殺するものではない」という前提で、

                                                「生き物を生き物として取り扱う態度と、

それを物理的化学的に最後まで分析しつくそう

という態度とは本来両立し難いのではないか。

われわれが生き物を生かしておくために、

物理的化学的な追求を断念する所、

まさにその所において生命の存在という

基本的事実が認められるのではなかろうか。」

と述べておられる。

(『目に見えないもの』講談社学術文庫94)

                                                そういう意味で、「細胞」というものは、

まさに、その所の汽水域に位置するもの

なのだろうか。

 

祝!3冊読破

集英社文庫さんの罠にまんまとはまり、

7月から3カ月連続刊行された、

「シートン動物記」を読破した。

                                                     今回は、『愛犬ビンゴ』他2作品。

これまで、オオカミ、カンガルーネズミ、シカ、ウサギ、

ウマ、イノシシ(レイザー・バック)、イヌと続いてきたが、

今回は、イヌとキツネとアライグマのお話だ。

こう動物名を並べてみると、

どれも北米大陸に自然に生息している生き物ばかり。

シートンが日常的に接していた動物たちを対象と

していたことがよくわかる。

                                                           さて、今回印象に残った部分は、キツネさんである。

獰猛な猟犬集団に、濡れた深い雪の中で

追いつめられる銀ギツネ。

ただでさえへとへとの中、先方集団には新しく元気な

猟犬が加えられた。

しんどい、とも寒いとも、言っていられない。

                                                           「あの名高いみごとな毛皮は泥にまみれ、

 立派な尾はぬかるみの泥を浴びて重そうに

 たれさがっている。

 足の裏の柔らかいところは肉まで裂けて、

 走るあとには血の足跡がついた。」

                                                            2003年4月、サッカー日本代表前監督のオシム氏は、

故障者が続いたチーム状況についてジェフの社長

に言った。

「肉離れ?ライオンに襲われた野うさぎが逃げ出す

 ときに肉離れしますか?準備が足りないのです。

 私は現役のとき一度もしたことはない。」

                                                 もちろん、準備不足のことを一番言いたかったの

だろうが、

人間が動物として持つ本来のしぶとさ、根性、忍耐力

を思い出せ、という意味もあったのではないかと思う

のだ。

恵まれたこの日本で暮らしていると、

つい自分が動物であることを忘れてしまったり、

動物と一線を画してしまったりすることに

ふと気付くことがあるが、

生き物としての自分が今どうなんだ、

ということは都度振り返らなければならないことなのだ。

                                                 シートンが描いた動物達は、

生き物として、一生懸命に生ききっている。

無心に、生きていることに徹している。

                                                「それはちょうど、昔の単純な信仰を今もな

 持ちつづけて、ひそかに生き残っている予言者の

 姿を思わせる。」

                                                そして、その予言者は、自分が実際に断崖のふちに

立っていることを知らない。

いや、知っているのかもしれない。

しかし、それに対してもまた、無心なのである。

                                                  そういう意味において動物たちは、

予言者でもあろうし、禅林の修行僧のようでもある。

                                                         前の記事で書いた通り、シートン本人も雄ジカと

面と向かった時に、仏陀のように悟りを開いている。

(『サンドヒルの雄ジカ』)

                                                            その瞬間こそ、

この3冊の中で最も私が忘れられない部分である。

372

2008年8月14日 (木)

ぎざ耳ウザギ

集英社文庫の「シートン動物記」の第二弾、

『ぎざ耳ウサギの冒険』を第一弾に引き続き読んだ。

今回の作品集の中で書きとめておきたいのは、

題名にもなっている『ぎざ耳ウサギの冒険』である。

                                                           綿尾ウサギの子、ぎざ耳坊やは、

生きていくために大事なことを、

母ウサギから色々と教えられていく。

                                                        敵に襲われそうになったら、

ただ何もしないで、石のようになってしまうこと。

                                                              足跡の臭いを嗅いで相手を追っていくこと。

                                                             敵に追われた時には、

とげのある野バラの茂みに逃げ込むこと。

流れる川もまた同じ。

                                                        しかし、いつまでも母ウサギがぎざ坊のそばに

いられるわけではなかった。

よそものの雄ウサギにいじめられ、

キツネに追われ、

母ウサギのモリーは天に召されてしまった。

                                                             シートンは言う。

「モリー母さんはほんとうの女傑だった。

英雄とはどういうものか考えたこともなく、

何百万の女たちが、

自分の小さな世界で最善をつくし、

そして死んでいっている。

モリー母さんも、

そういう女性たちのひとりだったのだ。」

                                                          「モリー母さんはぎざ坊のうちに生きていた。

そして、ぎざ坊を通してその立派な素質は、

綿尾ウサギの子孫へ伝えられるのである。」

                                                               このように、下の世代を育てる素質はDNAを通じて、

日々の行動の中で、

下の世代へと引き継がれていくし、

下の世代を育てることが得意な資質を持つ個体が

生存競争上有利になっていくことは

言うまでもない。

                                                             そういう意味で、先日他界した父は、

死の直前まで息子の私に小言を絶やすことが

なかった。

正直辟易してしまうこともあったが、

今となっては、

ただただ感謝するのみである。

2008年7月27日 (日)

シートンとローレンツと。

毎年、夏休みの時期になると、各出版社の

文庫フェアーが開催されている。

昨年は、集英社文庫「こころ」の表紙を飾った

蒼井優さんの凛とした姿(鳥巣佑有子さん撮影)と、

「先生」の奥さん、「静(しず)」の姿がぴたっと

重なって、即お買い上げ!となってしまった。

                                                              今年は「それから」かなあ、「門」かなぁと期待を

寄せていたが、世の中そう甘くもなかった。

同じ集英社文庫で6、7、8月とシートン動物記が

3ヶ月連続で刊行されるとのことで、

今回はこれにした。

                                                            一回目は、『狼王ロボ』(藤原英司訳)。

しかし、私が一番心動かされたのは、

表題作ではなく、

「サンドヒルの雄ジカ」であった。

執拗に大きな雄ジカを追い求めるヤン。

雄ジカはその経験と知性により何度もヤンの追跡を

回避してきたが、最期にとうとう追い詰められる。

                                                           今、彼らは「今藪の中で、わずかなの距離をおいて、

まともにむき合ってしまった」。

しかし、「雄ジカはひるんだようすも見せず、

その場に立ったまま、じっとヤンを見つめた。

大きな耳をヤンの方に向け、目は悲しみと真実の

光を帯びていた」。

                                                                             ヤンは、その刹那悟った。

「お前はあけっぴろげにぼくに救いを求めている。

 そうだ、確かにお前はその美しさと同じくらい賢い

 のだ。(中略)

 お前の毛一本すら損なうことはできない。

 ぼくらは兄弟なんだ」。

                                                            ヤンは言った。

「仏陀が悟ったことを、僕も今悟ったのだ」。

                                                                     そういえば、先般読んだ、『ソロモンの指環』で、

ローレンツ博士は動物の「勝利者の社会的抑制」

について触れていた。

                                                                「それまでは絶望的に身を守ろうとしていた

 敗北者が相手の攻撃にたいしてかまえていた

 障害が、いっきょに消失するのである。

 (中略)

 情けを乞うほうの個体は、

 攻撃者に向かってつねに彼の体のもっとも

 弱い部分、より正確にいうならば、

 敵が殺そうとしておそいかかるときに

 必ずねらう部分をさしだすのだ。」

                                                                            我々、ヒトのおじぎ、脱帽、捧げ銃(つつ)だって

その名残だという。

そういう意味で、博士は、聖書のあの有名な言葉、

「人もし汝の右の頬をうたば、左をもむけよ」

という言葉に新しい意味を汲みとる。

                                                          「敵に反対の頬をさしだすのは、

 もっと打たせるためではない。

 打たせないためにこそ、そうするのだ!」

                                                            さらに博士は、自らが持つ武器相応の自制機能

を十分に保有していない動物である人間について

問題提起する。

「この抑制もみずからの手で創りださねばならない」と。

                                                           ここでもまた、仏陀の思想とイエスキリストの思想が

融合するのである。