待望の神谷美恵子先生訳の「自省録」(マルクスアウレリウス著、岩波文庫)が再販され速攻読んだ。講談社学術文庫版は読んだことはあったものの、どうしても神谷先生の文章で読みたかったのだ。
同書は体系立てた記述でなく、つれづれなるままに色々書いてある体裁となっているが、勝手に要点を7つに絞り、それぞれについて思ったことを書いてみた。これは完全に自分のための備忘録である。
①人間がこの世に生を受け、死んでいくことは、宇宙の元素が結合し最後に分解されることである
⇒我々も含めて、地球上に存在するすべての物質は、宇宙のちりに起源を発するのだろう。宇宙のちりから宇宙のちりへと還っていく。この辺り知見には疎いが、恐らくはそういうことなのであろう。
②自分自身の構成要素、すなわち自然に持って生まれたものを活かしながら生きるべきであること
⇒宇宙のちりからはさまざまなものができる。私はたまたま、何らかのご縁で、人間となっただけである(しかし、ここで言うところの「私」という存在も相当怪しい。この身体だって、日々摂取している空気や食物で入れ替わり続けているはず。そういう入れ替わり続けている身体組織から意識が生まれ、ずっと変わらない「私」と認識しているだけなのであろう。それだからこそ、「私って一体何?」という問いが我々をひきつけてやまないのである)。 そうであれば、人間として与えられた生をどう全うすべきかを考えて行動し、同じ人間であっても、自分に与えられた特質を十全に活かしきるよう努力すべきである、と言っているのであろう。
③自らの指導理性(ト・ヘーゲモニコン)、善きダイモーン、すなわち内なる自然の欲するがままに行動すべきこと
⇒それでは、人間として与えられた生を全うするためにはいかに生きるべきなのか。マニュアル本のような具体的で明快な答えは提示されていない。自らで考えるしかないのである。そうすると自ずと答えが出るということなのだろうか(*2)。
④現在を一生の最後の瞬間のように生き切ること
⇒自ら発見した答えを日々実践すること。苦しくとも、力の限り前へ進んでいくこと。自分で見つけて納得したことなのだから他人になんと思われようが気にすることはないのだ。ニーチェの永劫回帰を思わせる(*4)。
⑤あらゆる出来事は、予め準備されていたことであるから、喜んでこれを受け入れること
⇒いくら自分で見つけた答えの通りに生きようと思ったって、人間は一人で生きているわけではないし、思い通りにならないこともある。災難や災害も起きる。しかし、宇宙のちりが何らかの要因で私になったように、あらゆる出来事も何らかの因果でそうなったのであるならば、「喜んで」と逃げずに受け入れていくしかない。
⑥我々を悩ますもの、煩悩はすべて自分の主観によるものであり、すべて外に放り出すべきこと
⇒「喜んで」も「いやだなぁ」もしょせん自分がその出来事を価値判断しているだけのこと。であれば、あれこれ考えないで、四の五の言わないで受け入れていけばよい。上記⑤と同様の趣旨か。動物が、怪我をしても痛そうにしないのはそういうことのようだ。人間が不幸にも交通事故に遭って亡くなるケースでは、自分で怪我の状況を見て分析したり、他人が自分の怪我を見た反応を見て気力をなくしてしまって、ということが多いと何かの本で読んだ記憶がある。熱がある時に、人に「熱があるんだぁ。かわいそう・・・」と言われて、急に元気を無くすのも同じことなのだろう(*1)。
⑦理性的動物である人間は相互のために生まれたものであり、協力すべきであること
⇒それぞれの人間が、なんらかの縁あって、宇宙のちりから生まれてきたものであるならば、それもまた受け入れていくしかない。あの人とは合うとか合わないとか、そんな価値判断もしゃらくせーということか。和を以って尊しと為す。これまた、難しいことではあるのだが・・・
以上(*3)
<追記>
(*1)般若心経に「照見五蘊皆空」とある。直訳は、五蘊、すなわち「色」、「受」、「想」、「行」、「識」は皆「空」なりと(観自在菩薩が)照見した、ということであるが、宮坂宥洪氏の解釈によれば、自分が自分である根拠、換言すると、自分を自分たらしめているものは、まさに、この五蘊、すなわち、「体がある」「感覚がある」「イメージを持つ」「深層意識がある」「判断をする」ということであるのだが、五蘊は決して自分ではない。どこにも自分は見当たらない。自分を探求すればするほど自分はいなくなってしまう。すなわち、五蘊というものがあることは認めるものの、同時にそれは自分ではないとの洞察を得ることを言っているのだという。まさしく、五蘊こそが煩悩や執着を生み出す条件なのであるが、それから解き放たれるべきだとの洞察であるという(「真釈 般若心経」 宮坂宥洪著 角川文庫)。類似したものの見方であるが、もしかして、このようなローマのストア哲学者の思想が仏教にも影響を与えて行ったのだろうか・・・法隆寺のエンタシスの柱のように。。。<17/Mar/07>
(*2)同書で宮坂氏は、般若心経の「般若波羅蜜多」を、「般若(智恵)という完成(波羅蜜多)」、すなわち、自分自身の内なる般若に目覚めよということだと解釈されている。こう解釈すれば、「般若」もまた、指導理性、内なるダイモーンとオーバーラップしてくる。
(*3)神谷先生は訳者解説で「彼が皇帝としてなまなましい現実との対決に火花を散らす身であったからこそその思想の力と躍動(エラン)が生まれたのかもしれない」と書いている。西暦120~180年頃まで生きたマルクスの言葉が現代を生きる私の心にすーっと染み通っていくのも、そのような日々の現実に格闘をする中で生まれてきた言葉だからであろう。加えて、訳者の神谷先生も同様にそのような格闘を身を削るが如く行じてきた方であることは衆目の一致するところである。
(*4)ナガオカケンメイ氏は、「死に向かってゆっくり歩いているのが人生だと思ったら大間違い。ものすごい急な坂を、僕らは転がっている。」と表現する(「ナガオカケンメイの考え」アスペクト)。<以上、18/Mar/07>
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