「レアティーズ: 溺れて? 一体、どこで?
王妃: 柳の木が一本、小川の上に差しかかって、
白い葉裏を流れの鏡に映しているところ。
あの娘は柳の葉を使って、きんぽうげ、いらくさ、
ひなぎく、
それに口さがない羊飼いたちが淫らな名で呼び、
純潔な乙女たちは死人の指と呼んでいる紫蘭をそえて、
きれいな花環を上手につくり、
その花の冠を枝垂れた枝に掛けようと、
よじ登った途端、枝は情(つれ)なく折れて、
形見の花環もろとも、
哀れにむせぶ小川に落ちました。
裳裾はひろがり、しばらくは人魚のように川面を
ただよいながら、
古い賛美歌を口ずさんでいたといいます。
身に迫る危険も知らぬげに、
水に生れ水に馴れ親しんだ生物のように。
でも、それも束の間、裳裾はたっぷりと水を吸い、
あのかわいそうな娘を美しい歌声から引き離して、
川底の泥のなかに引きずりこんでしまったのです。」
ジョン・エヴァレット・ミレイ(John Everett MILLAIS)
は、父を恋人に殺され、その恋人から「尼寺へ行け」
とののしられ、
「狂乱の体(てい)」となって非業の最期を遂げた彼女
を描きこんだ。
まずは、背景となる自然の描きこみ方が
半端ではない。
近づいて見れば見るほど、
集中すればするほど、
様々な色の花や緑が、丁寧に、あたかも目の前で
生きているかのごとくに描き込まれている。
そして、流れる川の清らか水も、そう。
そういう場所では、彼女は流され、
川の深みへと徐々に沈んでいく。
決して、慌てふためくという風ではなく、
自らの運命を受け入れるかのように。
一方、那古井の温泉で青年画家は考えた。
「成程この調子で考えると、
土左衛門は風流である。
スウィンバーンの何とか云う詩に、
女が水の底で往生して嬉しがっている感じを書いて
あったと思う。
余が平生から苦にしていた、ミレーのオフェリアも、
こう観察すると大分美しくなる。
何であんな不愉快な所を択んだものかと今まで
不審に思っていたが、あれは矢張り画になるのだ。
水に浮んだまま、或は水に沈んだまま、
或は沈んだり浮んだりしたまま、
只そのままの姿で苦なしに流れる有様は美的に
相違ない。
・・・痙攣的な苦悶は固より、全幅の精神をうち壊すが、
全然色気のない平気な顔では人情が写らない。
どんな顔をかいたら成功するだろう。
ミレーのオフェリアは成功かも知れないが、
彼の精神は余と同じ所に存するか疑わしい。
ミレーはミレー、余は余であるから、
余は余の興味を以て、一つ風流な土左衛門をかいて
見たい。」
しかし、この気持ちは、
作者である漱石の気持ちであろうと思う。
漱石はこの『草枕』の中でそういうことを
書きたかったと思うのだ。
ただ風流なだけではない、
ただ自然を模したのではない、
人間の生々しく激しい心の動き、情念のようなもの
を書き込みたかったと思うのだ。
私は、金曜夜の渋谷の静かな会場で、
漱石がロンドンで見たオフィーリアと対面しながら、
とても死と格闘しているとは思われない、
その彼女の姿が、
ロシアの戦場に向かう髭だらけの野武士のような
男、いや最愛の元夫と、別れた瞬間に、
ただただ呆然と汽車を見送るしかなかった
「那美さん」の「憐れ」な姿と重なってしまった。
よく考えれば、オフィーリアも那美さんも
周囲からは気がふれていると思われていた。
しかし、人間の心とはそんな単純なものではない。
「普通」の人も、周囲からそう思われているという人
も紙一重のようなところもあるし、
明確に線が引けるようなものではない。
会場に話を戻すと、
ミレイの本作の秀作が横に展示してあった。
こちらのオフィーリアの表情は、
あたかも川に落ちて狼狽する感じそのもの。
本作のオフィーリアの表情は、
秀作とは明らかに異なる。
それは、
私のような凡才がここで書けるようなものではない。
それが書けるのは、漱石のような本物の文学者
だけなのだ。
次回熊本に帰省した時には、再び漱石も浸かった
那古井のぬるめのお湯に浸かって、
オフィーリアのことをゆっくりと考えてみることにしよう。
引用文献)
『ハムレット』シェイクスピア、野島秀勝訳、岩波文庫
『草枕』夏目漱石、新潮文庫
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