無相の相を相として
今となっては2週間前の日曜日。
久しぶりの京都で迎える朝。
1月以来の僧堂で坐った。
やはり慣れた場所ゆえ、
えも言われぬ心地よさがある。
終わって、老師様の法話。
白隠さんの坐禅和賛の解説も、
「無相の相を相として 行くも帰るもよそならず」
まで来ていた。
その後は、泉湧寺へ。
特別拝観できた悲田院では、
快慶作の宝冠阿弥陀如来像と対面。
心洗われる端整なお顔立ちであった。
そして、本坊では、楊貴妃観音様とも対面。
こちらも端整だが、少し離れてみているからか、
白くて美しいお顔が闇の中でぽおっと浮んでいる
ようだ。
ずっとずっと手を合わせながら見とれていた。
そんな、感じである。
当然、そこで分けられていた美人守りの人気は
ひっきりなしであった。
別れを惜しんで、塔頭の来迎院へ。
ここの話はまた、改めて。
その後は、三条京阪で、お決まりの「皿盛り」を
頂いて、錦をぶらり散歩して、
京都伊勢丹の美術館「えき」へ。
しめに、円空仏に会えるとは。
ただの木の切れ端や切り株。
しかし、そこには、観音さまや大黒天さまが
にっこりと微笑んでいらっしゃる。
不動明王の燃え盛る焔も、
見方によっては、ただの木片に過ぎない。
円空直筆の歌もあった。
「いくたびも 絶えても立てる 法の道
96億 末の世までも」
円空の仕事は、無相の相を相として
行くも帰るもよそならぬことを
木片に仏を宿らせることで、
衆生に知らることに徹することであった。
維新の志士のごとき、その静かなる決意と
激しい決意に胸打たれ、
年末までの課題を心に誓った私である。


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