細胞の意思
久しぶりに、細胞のお話。
団まりな先生の
『細胞の意思 <自発性の源>を見つめる』
(NHKブックス 1116 2008年7月)を読んだ。
極めて刺激的な本であった。
先生の主張は極めて明確である。
「細胞を、分子ではとらえきれないもの、
一般的には描写しきれないものと認めて、
人間や人間社会のドキュメンタリーのように、
細胞を個別に描写することを試み」た書である。
いや、先生は、より端的に、
細胞が意思をもつ。と言い切る。
細胞の活動が、分子的、組織的な外力に規定される
ものだという考え方を「科学的考え方」とすれば、
先生は「擬人的考え方」の主張者である。
だからと言って、科学的厳密性に欠けるわけでは
ない。むしろその逆である。
この書を読んですぐに思い出したのは、
発生生物学の権威、岡田節人先生の
『細胞の社会』(講談社ブルーバックスB201 1972)
である〔⇒2007.6.19記事参照〕。
岡田先生の同書での表現こそ、擬人的である。
各章の題名からして、
「細胞同士のおつきあい」
「寂しがり屋の細胞」
「仲間がなければ生きられない」
「細胞は話し合う」
「細胞に永遠の青春を」
「細胞は手をつないでいる」
極め付きは、
「細胞は似たもの同士がお好き」
と来る。
さておき。
団先生は、細胞たちの「日常的な気分」に触れる。
「細胞というものは、
生きていることを喜ぶ一方で、
ほとんどつねに”あくせく”していると考えています。
その理由は、細胞が死と隣りあわせの存在だから
です。」
「生きようとする細胞の”意思”、
周囲の状況をいち早く把握しようとする細胞の
”監視行為”、
死に抵抗する細胞の”創意”」
このような能力を細胞に認めるべきだと言う。
ここで、「細胞」を「動物」に読み替えれば、
シートンが『動物記』で詳細に記述した
自然の動物たちの姿にピタリと重なる。
さらに、「日本」と読み替えれば、
世界の中で「名誉ある地位」を占めんと願う
我々日本人が直面する課題となる。
このように、細胞を擬人的にとらえるからこそ、
見えてくるものがある。
そうすればこそ、細胞生物学の知見が、
その所定領域を超えて他の分野に貢献し、
さらにその地平を広げることにつながって
いくのではなかろうかと思うのある。
そういう意味において、団先生の御指摘は、
刺激的であるし、頗る挑戦的でもあるのだ。
<補記、2008-9-23>
湯川秀樹先生は、
「生物の研究に対する物理化学的方法の
重要性を減殺するものではない」という前提で、
「生き物を生き物として取り扱う態度と、
それを物理的化学的に最後まで分析しつくそう
という態度とは本来両立し難いのではないか。
われわれが生き物を生かしておくために、
物理的化学的な追求を断念する所、
まさにその所において生命の存在という
基本的事実が認められるのではなかろうか。」
と述べておられる。
(『目に見えないもの』講談社学術文庫94)
そういう意味で、「細胞」というものは、
まさに、その所の汽水域に位置するもの
なのだろうか。
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