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2008年7月20日 (日)

マンデラの名もなき看守

送別会。引継ぎ。挨拶回り。引越し。

既に本格的に始まった新しい業務。

毎度のことではあるが、忙しい。

                                                             さておき、6月に観た映画について。

邦題は『マンデラの名もなき看守』。

                                                           ビレ・アウグスト監督が

「本作で最も重視したのは、信憑性」。

という言葉を信じれば、

一般的なマスコミの報道を元にしか知らない

ネルソン・マンデラという人物がより具体性を

持った人物になることはこういう映画の効用である。

(勿論、それだけに引き摺られてはいけないが・・・)

                                                            さて、本作の主人公はあくまで、マンデラの看守

であるジェームズ・グレゴリーである。

そういう意味で、本作はアパルトヘイトの

実施主体側の視点で作られた映画である。

                                                               本作に関しては、アパルトヘイトにおける

主体の側の残虐非道な行いの描き方が少ない

と言う方もおられるようだが、

私はそうは思わない。

むしろ、一番描きたいことを直接的に描かないで

一番描きたいことを描いている。

そういう映画だと思うのだ。

                                                                 例えれば、第二次世界大戦直前に、

ジャン・ルノワールが撮った『ゲームの規則』。

そこには、戦争のせの字もなく、

「野蛮で残酷な遊び」である狩猟会で逃げ惑う

動物と、それを、楽しみながら執拗に追う人間

の姿があるのみだ。

                                                           そういう意味において、本作の監督の手法は

評価できるし、

看守を演じたジョセフ・ファインズと、

看守の妻を演じたダイアン・クルーガーの好演には

拍手を送るべきだと思った。

(ダイアンは昨年観た『敬愛なるベートーベン』の

印象が強くてダブってしまったが・・・)

もちろん、マンデラ役のデニス・ヘイスバートの

抑制的な演技と役作りにも感服した。

                                                           ある主体が憎しみを作りだせば、

その主体の側中でも新たな憎しみと懺悔が

生み出される。

(看守の息子は謎の交通事故死を遂げる一方、

看守は検閲官として把握した情報を公安へつないだ

ことに強い自責の念にとらわれる)

                                                                それに関して、マンデラが、

過去の憎しみや懺悔の念に囚われていては

将来が開けない。

一旦忘れて前を向いていくのだ、

というようなことを、看守を諭すが如く

言う場面がとても印象的であった。

                                                             「虹の国」を目指すために。

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